北軽井沢の白樺林の中にある、『幸せの黄色い洋館』より、日本中・世界中へ素晴らしい高波動のエネルギーをお届けしています(^^*

☆ご質問「愛と執着の区別の仕方があれば、知りたいのですが」

 

これは本当に、難しい問題ですよね!!

だって、自分は「愛」「好意」「善意」だと思ってやっていることが「執着」となっている場合が多いですから。

 

でも、それは人から見たら、そして相手から見たら「愛情ではなく、ただの執着だ」ということになる場合は、多々あります。

 

お友達に対して、パートナーに対して、子供や親に対して。

仕事仲間やサークルの仲間などに対しても、湧いてくる感情です。

 

また、人に対してだけではなくて、物や現象に対しても、この問題は付いて回ります。

 

以前、千日回峰行というすごい行を成し遂げたお坊様が、確かこんなことをおっしゃっていました。

 

「とても厄介なものは、嫉妬の感情です」

 

嫉妬って、執着の一つです。

 

精神修養された方ですら、やっぱりまだ悩まれるというのですから、相当な強さなんですよね。

 

でも、もしそうであっても、日々意識を変えていくことで、だいぶ楽になってくことでも、あると私は思っています。

 

前に

 

☆「片思い」と言う現象はどうして起きるのか、そして、どうやったら抜け出していけるのか
 

という内容を書かせて頂きました。

片思いって、まさにこの「愛と執着」を行ったり来たりする状態だと思います。

 

また、もうすでに両思いたっだとしても、お付き合いしていたり、結婚していたりしていても、その時その時の状況によって、片思い的現象は発生します。

 

親子の関係でも、お友達でも仲間同士でも、片思い関係は発生します。

 

「執着してしまっている」というのは「片思い状態になっていて、離れていってほしくなくてしがみついている」状態なんですよね。

 

今日のテーマは「愛と執着の区別の仕方」なのですが、これはまたまさに、こないだ片思いの記事に乗せた、さだまさしさんの歌の歌詞にある内容だと感じます。

 

つまり

 

相手に 求め続けていくものが恋 奪うのが恋

与え続けていくものが愛 変わらぬ愛

 

ということだと思います。

そのバランスの問題なんだと思います。

 

例えば

「私は大事な息子や娘に、愛情をいっぱい与え続けています!」

ということであったら、それは素晴らしいことだと思います。

 

ただ一方で、その親御さんは

「その子供たちの自由や、権利を奪ってはいけない」

ということになると思います。

 

大切な存在程

 

「自分のそばで、自分がコントロールできるように縛りたくなる=守りたくなる」

気持ちが出てきますし

 

「遠くに行かないようにしたくなる、誰かに渡したくない」

という気持ちが生まれてきます。

 

でも、例えば子供さんだったら、大きくなってきたら、自由に交友関係を広げたり、下宿して家を出ていったり、好きな人とお付き合いして結婚することができるように、その束縛を緩めることが大切になって来ると思います。

 

また、好きな人に対してだったら、その人の自由を「常識の範囲を超えて」阻害するのは、その人らしく生きることを邪魔することになると思います。

 

 

なので、究極は。

 

究極は、ですが、執着にならずに愛の状態でいようと思うならば、常に

 

「もし私がこの世にいなくても、この人が、もしくはこの場が、最高に幸せで楽しい状態でありますように」

 

「そしてその状態の中に、生きて私が存在する場合でも、その幸せを邪魔するようなことがありませんように」

 

「その状態で、私自身も自分で幸せであれるよう、努力して楽しんでいけますように」

 

という精神状態とそれに伴う行動が、本当に執着を手放した「愛の状態」なのではないかなと、思います。

 

 

以前、ふと考えたことがありました。

 

例えば今私が1分後に死んだとして(しばらくは私のことを知っている方が悲しんだりしてくださる、ということはあるでしょうが)、その後は、みんなは私がいない世界で、それぞれが幸せを見つけて、これからも生きていくことでしょう。

 

でもその時、もし私がいなくなる事で、誰かが「ああ、自由になった」「楽になった」と思うようなことがあったなら、それは誰かを「今現在のこの状態」の中で「束縛している=執着している」ことになります。

 

そう思ったら、

 

「絶対に、今この時点から、そういう現実は起こしたくない」

 

と思ったんですよね。

 

私がこの世にいることで、誰かが縛られて辛い状態にあるなんて、それはとても不幸な現実を「この世界に私が生んでいる」ということになるからです。

 

 

繰り返しになりますが私自身、本当にいつ死んでしまうかなんて、わからないのがこの世界です。

 

5分後かもしれないし1秒後かもしれません。

 

その後、

 

「みんなが私抜きで幸せに過ごして行くと思ったら悔しい!辛い!絶対いやだ!」

 

と思ってしまうという状態、それは「何らかの執着がある」ってことなんだと思います。

 

だからと言ってそれを全部手放して、何も感じないくらい平常心になる、なんていうのは、神様仏様レベルにならないと無理だと思います。

 

でも、出来るだけそんな中でも「みんなが幸せに、元気に生きていってくれたらそれでいい」って思える自分を育てていく。

 

徳の高い、波動の高い、高次の視点からこの世界を感じられる自分になっていく。

そういうことが、「愛と執着」を理解していくうえで、すごく大切なのかなって思います。

 

これで、ご質問の答えになっているかどうかわかりませんが、私なりの感じることは、こんな感じです。

 

(^^*

 

ありがとうございました。

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